ここ最近、各テレビや新聞紙上で「医療」という単語を目にしない日がないくらい、「医療」や「健康」というものに国民の関心が寄せられている。政府の唱える財政構造改革の一環としての医療費高騰抑制といった経済面のみならず、来るべき超高齢化社会に向けての医療提供体制のありかたや、提供される医療の質と いった面からも抜本的な制度改革の必要性が議論されている。
とりわけ、国民医療費面からの論議は声高である。平成8年度での国民医療費が27兆円の規模に達し、国民所得との比率が年々増加の傾向にあり、高齢化がピークに達する2025年には「医療費で国が滅ぶ」とまで表現される事態を懸念して、さまざまな論議が展開されている。
本稿では国民皆保険をベースとし、世界最高の医療制度を構築する潜在能力を有している今後の日本型医療制度の方向を探るとともに、健康診断に代表される予防医学の、医療事業としての有効性を提言する。
7月の日本医師会の制度改革案、8月7日の厚生省案、それを受けた形での与党協案と議論百出である。これらの論議を概観すると、経済、医療の質、高齢化の三つの面からの取り組みがなされていることが分かる。
本章では、現在議論されている医療制度論議をこれら三つの面からの切り口でまとめることにより、期待あるいは予想される医療制度改革の方向性をさぐる。
まず第一に挙げられるのが経済、あるいは医療費の面からである。平成8年度において国民医療費は27兆円の規模に達し、対国民所得の5%を占めるに至っている。一般にマスコミ等であまり触れられてはいないが、この27兆円という金額はOECD諸外国と比較して相対的に低い数字となっている。現状における日本の医療費は諸外国と比較して低いのである。では何故、医療費の面の論議が活発になされているかというと、来るべき21世紀を憂慮してのことである。総額においての数字はあまり意味をなさないが、対国民所得(NI)や国内総生産(GDP)との比較における金額では、それは直接に国民の懐を襲う。現在の対国民所得で5%の数字が高齢化のピークとなる2025年には18〜25%まで増えると予想されている。重要なのことは、医療費の伸び率自体はここ10年程度落ち着いているのであり、また70年代における「新技術による検査機器の開発」といった医療費を大幅に押し上げる要因が見あたらないことである。むしろここで注目すべき点は、比率の分母である日本経済の伸びが完全に失速していることである。
「病院ランキング」といった本が好調な売れ行きを示している。かなり目立つコーナーに平積みしている書店も多く見かけられる。これは「適切な”情報”を得て本当に質の良い医療機関を”選択”して受診したい」という要望の表れである。そういったランキングの根拠自体はかなり怪しい。にもかかわらず結構信用してしまう傾向にある。これは金融・流通と同じように医療といったブラックボックス的なものに対して「不信・不安」を感じてきたため、とにかく的確な(?)情報を得たいという願望の裏返しである。
一方、医療の現場においては不満が渦巻いている。患者の側からは「3時間待って3分診療」の言葉に代表されるように「丁寧に診てくれない」といった不満がある。それに対して医療機関側からは、「丁寧に診たいのはやまやまだが、現行制度のもとでは採算がとれない」といった反論がなされている。
「医療の質」という点を論議するには必ず「情報の開示」といった視点が必須であるが、この点についてもやっとレセプトの開示が一部なされるようになったのみであり、現状まだまだの状態である。また、この文脈と相通じるが、日本医療機能評価機構が本年度から活動を開始したことは評価できる動きであり、注目に値する。
人類史上かつてない超高齢化社会へ急速に突入しようとしているのが現在の日本である。老人とは、いうなれば生物学的にも不可逆的にその機能が衰えていく存在である。闇雲にその機能の維持回復をはかることがQOLといった視点から正しいことだろうか?今求められているのは、「壊れてから治す」治療中心の医療から、予防・介護に代表される、もっと「生活サービス」としての面を強く持った医療である。一方、西暦2000年に施行される介護保険制度は、現在の医療費に占める介護的な部分への金額が1兆円程度であり、財政的にも抜本的な解決策とはなり得ない。
以上、概観したものを一言で述べると、現在の日本の医療は「途上国型の医療構造」から「成熟経済型の医療構造」へと転換が迫られていると言えよう。戦後の日本の医療政策は、量の拡大を第一義とし、それは国民皆保険の形と世界最高の長寿国といった形で結実した。しかしながら、その医療提供体制は老健法による拠出金や退職者医療制度に代表されるように、保険者間の財政調整が複雑怪奇なつぎはぎだらけとなり、「給料から天引きされるこの金額は、一体何のため、誰のために払っている金額なのか」が見えない不透明な制度となっている。当時からの制度の枠組みの中における微調整でなんとかやりくりしてこれたのは、すべて「経済成長で丸く収まった」からである。ところが、ここに至って日本経済の完全な失速の中で、既存のフレームの中における微調整では破綻が表出してきているのが現状である。
思うに、「全体の枠組みを変えず既存の制度に微調整を加えてやりくりして凌ぐ」のは医療に限らず戦後日本社会のあらゆる面で見られる方法論であり、(その方法論が現在に至るごく最近まで有効に機能してきたことは認めるとしても)今迫られているのはそういった「なあなあ」の社会制度自体の変革であり、経済構造の変化に伴うフレームの組み直しである。昨今の金融ビッグバン論議も同列であり、医療のみが制度の変革を迫られているわけではなく、それは日本社会全体の変革の一側面にすぎない。しからば、この抜本的な制度改革は「なされる、なされない」の視点で論議されるより「早いか遅いか」の違いにすぎないと考えられよう。
前章で「途上国型の医療構造から成熟経済型の医療構造へ」という点を述べたが、我が国より一足先に成熟経済型へ社会自体が突入した米国の医療制度、特にその医療費の支払制度の変遷を追ってみる。
ある国の医療というものが多かれ少なかれその国の文化に密接に結びついていることは論を待たないだろう。各国の医療制度の違いはその国の生活文化に根ざしている部分が多くを占めるため、単純な比較はミスリーディングを誘発するが、本章では諸外国の事例としてアメリカにおける医療制度の変遷を辿ってみる。おおまかな流れとしては以下の通りであろう。
20年前の米国における支払い方式は現在の日本と同様に出来高払い方式であった。検査なら検査を行っただけの報酬が保証され、まさにその状況は「この国では医療機関に金額欄無地の小切手を振り出しているようなもの」であった。Profession Freedomの基で診療内容を濃くする方向にインセンティブが働き、総額において医療費の高騰をまねいた。また、病院にとっては高度の設備と病床数の多さがステータスとなっていた。
高度な設備投資ラッシュが続き、医療費高騰に対して採られた施策はいわゆる”丸め”である。しかし、この定額制度は日単位での制度であったため、医療機関側の収益確保のポイントは、在院日数を伸ばす方向にであり、在院日数の長期化へとインセンティブが働き、当時での平均在院日数は約45日であった。この制度の導入においても総額の医療費高騰は止められなかった。
1983年にMedicareに導入されたDRG/PPSは、引き続く医療費高騰抑制の切り札として期待された。この制度は、診断された病名に基づいて報酬額を決定するもので、不要に長い入院や投薬・検査等の措置はそのまま収益を圧迫するものとなった。ここにきて、それまでのProfession Freedomの基で「やればやっただけ」受け取れた報酬は、「なるべくやらない方がいい」というインセンティブを与え、病院の戦略は180度の方向転換を迫られることとなった。しかしながら、この制度は医療費抑制の面からはうまく機能しなかった。収益は経費節減と収入の増大で確保されるが、収入の増大を図って、病院はその存続のためにその戦略を患者の奪い合いに向けたためである。高騰の激しいときで、支払う保険料で年に16%の値上げとなったことに現れたとおり、総額の抑制という点では失敗に終わっている。
医療費抑制においては失敗であったが、この制度を通過点としたことで病院にとっては経営体質の改善を余儀なくさた。それは、来るべきCapitationの時代における生き残りのための基礎体力を獲得できた点で有効であったと言える。
高騰する医療費削減の期待を込められて導入されたDRG/PPSだったが、その目論見は大きくはずれた。最大時では1年間の保険料で15%の伸びを記録することとなった。ここにきて悲鳴を上げたのは特に製造業を代表とする企業であった。企業は従業員の保険料の一部または全部を負担しており、保険料の高騰ため製造原価があがり、製品の国際競争力まで脅かすこととなった。ここにきて導入されたのが、人頭払い制度であり、今日マネジド・ケアとして知られている。この制度は保険者と病院があらかじめ「前払い」で年間の医療費用を契約し、その保険者に入っている被保険者の疾病をすべて面倒をみる、という内容である。医療期間側にとって、この制度上では「患者はすべてコスト」であり、「一人も患者が来ないことが最大の利益となる」こととなり、経営戦略の上で完全な転換を余儀なくされた。
以上、前章で概観したとおりの経緯をたどり、米国では現在、マネジドケアの嵐が吹き荒れることとなっている。ちょうど1983年のDRGによる支払い制度の導入時点の米国と現在の我が国の状況はオーバーラップする部分が多いように見受けられる。
今後、我が国においても同様に、広い意味でのマネジドケアが主流になると考えられるが、では日本型のマネジドケアはどのような形態となるかを本章で論述を試みる。
まず、結論から述べると、現在の日本の医療制度の中で、決定的に抜けている機能は、エージェントたる機能である。言い換えると、情報の「コンビニエンスステーション」とも表現できよう。現在の医療は、その内容において高度に細分化され、専門家たる医師すら自分の専門分野以外については未知に近い状態となっている。ましてや一般患者においては、その内容・バックグラウンドを正確に理解することは不可能と言っても過言ではないだろう。自由競争市場における競争原理はそこにおいて提供されるサービスの「質の向上」に寄与することは論を待たないだろうが、医療における市場原理の導入には慎重を要する。その理由として挙げられることは、サービスの購入者である患者側がそのサービスの正当性や価格を評価することは不可能である点である。「あなたの受けた心臓バイパス手術は○○万円です。」といわれても、その金額が相対的に高いのか低いのかを判断する基準もガイドも存在しない。そういった点で機能する、患者と医療機関の間に入るエージェントが必要となる。
一般的に高度に技術が高度化し専門分化されると、その技術の提供者側と購入者側で情報の非対象化が進む。通常は自由競争市場に則った競争原理に基づき、その市場価格は原則的に安定してくる。しかしながら、その前提としては情報が正しく公開されていることである。情報が公開された上で、対価としての価格折衝へと進み、そのためのバーゲニングパワーが必要となるが、本来このような機能は、保険者こそが担う役割そのものではなかろうか。当然、保険者においては、加入者という意味での被保険者に対してのガイドを示すということが必要となるし、それこそが本来の保険者の役割であろう。
患者あるいはサービス購入側のエージェントとしての機能が保険者に求められるとして、では実際のところ現状で保険者に任されている権限はどの程度のものであろうか?実際にエージェントとしての機能をまっとうすることができる環境にあるのだろうか。保険者の7割近くが構造的に赤字の財務状態であるが、では財務状態を改善させ得る権限は与えられているのだろうか。
現在では保険医療機関の指定は都道府県知事によることとなっており、保険者との直接契約でないばかりか、価格交渉の場所すら与えられていない。すなわち、保険者側に「良質な医療機関を選択して契約する」という余地は全く残されていない。まさしく「手足を縛った上で泳げと言っているようなもの」であろう。また制度上はともかくとして、保険者側に医療内容まで踏み込んで分析できる人材が不足している点も大きな課題であろう。論議されている医療制度改革の中において「保険者機能の強化」が挙げられるのも十分に頷ける状況ではある。
ここで前章の内容を振り返ってほしい。結論からいえば、現在の状況は、米国の約20年前の状況に酷似してきてはいないだろうか。今後、保険者において権限と人材の面をクリアするならば(HMOほど極端ではなくても)、経営者は医療機関と保険者との直接契約制度も視野に入れておくべき段階に入ってきているといえないだろうか。
翻って、現在の医療制度の中で唯一、医療提供機関と保険者とが直接契約を実施している事業がある。それは健康診断事業である。周知の通り、健康診断を筆頭とする予防医学事業は、その契約先の大半は健康保険組合となっているのが実態である。前章で述べたような事態も今後考えられるならば、今から患者団体である健康保険組合とのつながりをもっておくことは経営上のリスク管理面からも、非常に有効な手段と考えられよう。
私見であるが、第3章で概観した米国の医療制度の変遷に従って述べると、終局的には(それが正当の機能するとして)「人頭払い制度」が医療本来の姿を反映した制度であろうと考えている。この制度のもとにおいて、初めて「壊れてから治す」医療から「壊れる前に介入する」医療へと変わるインセンティブが働くのである。きれいごとの問題ではない。現在の制度上では、「壊れる前に〜」では医療機関の経営が成立しないのである。
国民皆保険は我が国が世界に誇りうる制度であるとは思う。しかしながら敢えてその内容については見直しの時期に差し掛かっているのではなかろうか、という点を指摘して本稿の筆を置く。